日本語は言い方が多い
日本語を母語としている者が言語学を学ぶと、日本語という言葉がいかに特殊かということがわかる。
例えば、主語の省略が可能であることだ。
川端康成の「雪国」の冒頭は、翻訳が難しいということで有名だ。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
これは主語がない。いや本当はないわけではない。自分がトンネルを抜ける列車に乗っていて、その移り変わる場景の体験が言葉になっているから、主語が明示できない。このような主語の不在については先行研究がたくさんある。
「雪国」の冒頭だけが特殊な例ではない。主語の省略は会話によっても起こる。
「昨日急に雨に降られちゃってさ」
このような会話はよくある。誰が「雨に降られた」か。もちろん発話しているわたしである。日本語は主語を明示しなくても、会話が成立する。
さて、「雨に降られた」は今ではあまり言わないだろうか。最近日本語を母語とする知人に世間話でこの言い方を使ったら、意味が伝わらなかった。この「降られた」の使い方も特殊だ。「昨日、外を歩いていたら雨が降ってきた」でいいのだが、「降られた」によって、おそらく傘を持っていなかったんじゃないか? という想像ができる。会話は「ああ、最近急な雨が多いよね」と続くかもしれない。
あまり使う人がいなくなったとわかっているのに、「雨に降られた」をよく使ってしまう。なぜだろうか。急な雨降りに遭ったということを表わすのは、これが最適だからか。