見習い博士のアルパカちゃん

言語学を専攻するアルパカちゃんです。よろしくお願いします。

人生を一言じゃ語れない。

人生に失敗とかないと本気で思っています。

 

なぜだろう。

 

葛藤も一つの人生だからか?

 

何も苦労していないわけではない。

 

財布に100円もなくて、飲み物が買えなかったことは何度もあるし、

 

電気が止められて再契約すらできなかったこともある。

 

綺麗事じゃ生きられないとわかってるわたしが、

人生に失敗はないって言うのは、

 

別に矛盾じゃないですよね。

日本語は言い方が多い

 日本語を母語としている者が言語学を学ぶと、日本語という言葉がいかに特殊かということがわかる。

 

 例えば、主語の省略が可能であることだ。

 

 川端康成の「雪国」の冒頭は、翻訳が難しいということで有名だ。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

 これは主語がない。いや本当はないわけではない。自分がトンネルを抜ける列車に乗っていて、その移り変わる場景の体験が言葉になっているから、主語が明示できない。このような主語の不在については先行研究がたくさんある。

 

「雪国」の冒頭だけが特殊な例ではない。主語の省略は会話によっても起こる。

 

「昨日急に雨に降られちゃってさ」

 

 このような会話はよくある。誰が「雨に降られた」か。もちろん発話しているわたしである。日本語は主語を明示しなくても、会話が成立する。

 

 さて、「雨に降られた」は今ではあまり言わないだろうか。最近日本語を母語とする知人に世間話でこの言い方を使ったら、意味が伝わらなかった。この「降られた」の使い方も特殊だ。「昨日、外を歩いていたら雨が降ってきた」でいいのだが、「降られた」によって、おそらく傘を持っていなかったんじゃないか? という想像ができる。会話は「ああ、最近急な雨が多いよね」と続くかもしれない。

 

 あまり使う人がいなくなったとわかっているのに、「雨に降られた」をよく使ってしまう。なぜだろうか。急な雨降りに遭ったということを表わすのは、これが最適だからか。

 

 

映画館が苦手だ

映画館が苦手だ。

 

映画は好きだが、映画館は苦手。

 

まず音が大きい。

上映前の予告編の時点でもうかなり疲れてしまう。ジャジャーン、バーンみたいな音に。

 

そして、当たり前だがスクリーンがでかい。

映画館で映画を観ると、人の顔の皺まで見える。

それが映画というものにとって重要なのだと思うが、対面で人と会話するよりも大きく人の顔が見える。

それもかなり感情的で、情動的な。

刺激強しである。

 

そして、最後に、

映画館は異質な閉鎖空間である。

映画館は不思議な閉じられ方をしている。

そこには絶対に自分以外の何人もの人がいるはずだが、でも真っ暗なそこでは、自分とスクリーン以外は目に入らない。

 

しかしやっぱりその空間には自分以外の大勢の人が、同じ映画を観ているのだ。

 

この異質な一人の空間。

 

わたしはこの空間に馴染むことができないのである。

大学院生と問い

 

 

大学院生が何をしているかというと、それは問いを見つけているのです。

 

問いを見つけるとは何でしょうか。

 

それは違和感とも言い換えられます。

それは気になったこととも言い換えられます。

 

例えばとても偉い先生の本を読んでいたとします。

 

ほーすごいな〜。難しい。でもきっとすごいことが書いてあるんだろうなと思います。

 

ただ何となく「ここは違うのでは?」という違和感があったとします。

 

それが問いです。

 

自分が大好きな人がいたとして、

それは恋人でも友人でもどんな関係性でもいいのですが、

そういう大好きな人の言動になぜかここだけは引っかかるなというところがあるとします。

 

それが、自分のオリジナルな問いです。

 

問いをもつということはとても尊いことであり、大事なことです。

 

大学院生がやっていることは、

さらにそれを掘り下げて、

テーマにして、

論文を書くことです。

広告と自由。

広告をつければお金がはいる。

しかし自由が効かなくなる。

 

現代はこの狭間にいますね。

 

広告をつけても自由に好きなことをする。

 

そんな破天荒な企業はないか。

 

 

その企業の精神が好きだから、

何があろうと自分たちの責任として受け入れる。

 

そんな懐の深い企業もないか?

 

そんな広告の世界は、

実現……

 

できるかも。

結局は人材である。

結局は人材だ。

 

この言葉にひっかかるのは企業の人事だけでしょうか。

いやいや我々労働者全員が胸を張ってこのことを主張しようじゃないか。

なんてスローガンめいたことから始めましょうか。

 

新人教育に関わっている人なら共感してもらえるかもしれませんが、

できる新人とぶっ壊す新人は意外と紙一重です。

 

それはつまりどういうことかというと、

(仕事が)できる新人は既存の秩序を壊して、新しいより良いやり方を自分で考え、模索するからです。

 

それは元々いた人たちにとっては、悪い新人になる可能性もあります。

なぜかというと、自分たちが築いてきたものが壊されるからです。しかも昨日今日入ってきた新人に。

 

でも物事をより良くするって、そういうことだと思うんですよね。

 

わたしがいい新人になれなかったのは、

ぶっ壊しすぎたからかな。

 

なんて独り言はおいて、

そういう自分で考える新人を潰して排除するか、

能力を発揮させて組織の中で活かすか。

 

その選択でその企業の数年後は変わってくるはずです。

 

新しい人、価値観、仕組みを受け入れることは

とてもエネルギーのいることです。

でも自分で考える社員がいなければ組織はいつか空疎化してしまいます。

肩書だけ、年数だけでは戦えません。

 

現状維持と言いますが、

平穏に現状維持できている背景には、

どれだけの試行錯誤があるか。

それを継続していくために、自分で考えて創意工夫して、変革の大きな社会の中で維持している人がいるのです。

 

 

なぜこんなに熱くなるかというと、

わたしがぶっ壊すだけ壊していい人材になれなかったからです。

自分が間違ってたとは思えないけど、

じゃあどうすべきだったか。

仕事を辞めてから1年弱が過ぎますが、いまだに答えは出ていません。

 

自分への悔しさをバネにしながら、しかし言いたいのです。

 

結局は自分で考えることのできる人材が大事だ、と。

第二言語習得の困難

第二言語を学ぶ際に課題になることはどんなことでしょうか。

 

困難にぶつかっている方がいたら、

その経験を教えてください。

 

自分が外国語を学ぶ立場になってはじめて、

異なる言語で仕事や勉強をすることがいかに大変かを知りました。

 

ただ、その困難は言語というものの本質を逆に浮かび上がらせるかもしれません。