新書をきっかけに「言語の恣意性」について考える。
この前本を買った。
『言語の本質』
今井むつみ、秋田喜美
中央公論新社、2023年5月
最近出た本で、売れ筋ランキングに入っているためか、どこの書店に行っても目立つ棚に陳列されている。是非読んでみたいと思って、わたしも買ってみた。
内容はオノマトペを足がかりとして、言語の本質にせまるものだ。専門書でもあるし、一般に開かれた本でもある。わたしも改めて言葉について考えるきっかけになった。
この中で出てきた「記号接地」という言葉が興味深い。
「記号接地」とはコンピューターに言語を学習させる際に用いられる概念だ。コンピューターは我々のように経験をすることができない。つまり言葉は言葉で説明するしかない。夏という言葉は「7月8月」とか、「暑い」とか「爽やか」とかそういう言葉で裏付けされる。逆を言えば、コンピューターにとっての言語とは、それでしかない。
我々は言葉の意味なるものはもともとあるものと考えているが、コンピューターにとってはそうではないようである。ただ、人間にとっても実はそういう側面もあるかもしれない。
例えば「概念」という言葉について考えてみよう。
「概念」という言葉を知ったのは高校生の頃だったか。犬を例にした説明だった。我々は犬を理解するとき、例えば、よく効く鼻がある、特徴的な耳があってワン! と吠えるということを意識せずとも判断していてそれが犬という「概念」だ、と。
「概念」なるものがあるんだな。
それまでは「概念」という言葉を知らない世界で生きてきた。というか「概念」という概念を知らなかったわけである(ややこしいが)。
ただ、本当に知らなかったかどうかは微妙なところだ。なぜなら高校生以前のわたしも犬を見てそれなりに猫ではなく、うさぎでもなく、犬だなと思っていたからである。「概念」という言葉の定義を知らずとも、犬の概念はぼんやりと理解していたということだ。
ただ、犬の概念は理解していても、「概念」の概念は理解できていなかっただろう。ややこしいな。例にあげた言葉が悪かったか……。
このような「記号接地」について考えてみると、「言語の恣意性」という概念にたどり着くだろう。
言語の恣意性とは、言語の意味なるものは恣意的であるという定義だ。恣意的とは言ってしまえば気まぐれ? みたいなもので、決まりきったものではないということである。日頃から言語を話すわたしたちにとっては、驚きである。